なんの憂いも揺らぎもない関係なんかない
069:縺れた糸は解けることはなく絡まったまま、私を縛りつける
ざわり、と鳴る樹音が葵の耳の奥をザラリと撫でた。嫌な予感。こういうことはたいてい当たる。昔からそうだ。こうだったらいいのにってことはならないくせに、こうだったらやだなと言うことばかり的中する。簡易的な庇を備えた日本風の門扉のところで男二人が立ち話をしている。伊波葛と墨で書かれた表札の隣に三好葵と洋墨で書かれた名前が並んだ。葵の名前は後から付け足したものだ。元々この家は写真館を畳んだ後に葛が建てたものであり、葵はそこへ転がり込む形で二人で暮らしている。現地風の男と話している葛が微笑んだ。かずら、と呼びかけて葵の声が止まる。男の身形はそれなりで葛の仕事関係者かもしれない。港湾部での人足仕事で日銭を稼ぐ葵は埃だらけだ。唐突に、話している二人の小奇麗さが鼻についてそこへ加われなかった。こんなことは初めてだ。葛が近所の者と話していても仕事帰りであっても葵は躊躇なく葛の名を呼べたのに。
思わず身を隠した茂みは棘のある種類で葵の頬や手のひらをちくちく刺した。いらだち紛れに揺すってやる。棘より小さな白い花がはらはら散った。身形の小奇麗な男は背も高い。素人探偵よろしく葵は二人を見据えていた。額をあらわに撫でつけた髪と少し年上ぐらい。落ち付いた雰囲気で物腰も穏やかそうだ。葛が時折微笑むのは冗談を話に混ぜるからか。馬鹿でもないようだ。葵は唐突に気付いて茫然とした。茂みに埋もれるように背中を押しつけて何とか立っている。服越しに背中を棘が何度も刺した。口元を手で覆う。吐き気がした。
高千穂、勲だ。
似ているのだ。死んだのを目の前で見たから、生きていたのか、という考えは浮かばなかった。だが葛が今愉しげに話している相手は、そうだ、高千穂勲に似ていて――
葛と葵の別離の期間がある。飛行機で別れる前のことだ。葛が連れ去られてそれを助けに行ったのに葛は高千穂勲を選んで葵や棗の前から姿を消した。それは傷痕のように葵の中に眠っていた。今まで何ともなかったのに。割り込んで行って邪魔でもしてやろうという楽観的な行動が取れなかった。足が竦んでいた。葵の脳裏は葛を葵から奪っていった男のことで埋まった。あの男は高千穂じゃない。でも、あぁ、似ている、違う判ってる、そう違うんだ。何度も何度も言い聞かせる。思わず手に力がこもって茂みを握りしめた。ぶづっと切れる音がしてぽたぽたと鮮血が滴った。白い花が紅く染まっていく。ぽつぽつと蛍火のようなひらめきは紅く黒く沈んでいく。ひゅう、と喉が鳴った。タカチホイサオジャナイ。そう、判っているはず、なのに。
「あおい?」
声をかけられてはっとした。葛が書類ばさみでまとめた書類を携えて立っている。葵は唐突に己の今の状況を理解した。何か説明。打開。誤魔化さ、なくちゃ…。
「え、な、に。かずら、ちゃん?」
「何はこちらの台詞だが。人様の生け垣にもたれるんじゃない樹が傷む。そもそもそれは蛇結茨だから棘がある筈だぞ、痛くないのか?」
昨今では植物や生け垣にも流行り廃りがあるらしく肥料や人工的な明かりなどで花を咲かせたり葉を茂らせたりする時期をいじれるらしい。葛は葵が埋もれている植物を言い当てる。何処で覚えたのか葛は植物に何故だか詳しい。精神統一の鍛錬として華道をかじったからだと言うのは本人の談だ。
「え、あー……痛い、かな。あははッははは、痛いや痛い」
葵はよッこいせ、と体を起こして刺さった棘を払うなり抜くなりした。それでも体の奥深くへ呑みこまれてしまった棘がずきずきと痛んだ。植物にとっては棘や葉というのは末端であるから簡単に切り離せるのだ。葵の体にはいくつも棘を呑みこんだ跡が残るだろう。
「あまり痛むようなら医者へ行って切開してもらうしかないぞ。まったく、あんなに強く寄り掛かっていたのに痛くなかったのか」
「…――葛ちゃんこそ話が弾んでたみたいだけど、いいの?」
葛がきょとんとした。判りづらいが眉間が開いて黒曜石が瞬く加減で判る。
「気を使ったのか? あれは仕事の依頼人だ。論文の清書を頼まれた」
葛の言葉はあまりにもあたりさわりがない。それが逆に邪推を呼んだ。止めなきゃならないと判っていて葵はあえて暴走を選んだ。
「好き? ああいうタイプ?」
みるみる葛の機嫌が悪くなっていく。葛は葵の問いの意図するところを正確に読み取っている。下世話な想像を孕むその問いに警告を発している。歯止めが利かなくなる、その前に止めておけ。イヤダヨ、イマイッチャエヨ、ダッテズットソウオモッテタンダロウ?
「高千穂勲に似てたもんな」
間をおかずに乾いた音がした。平手でさえない。口の中でころころ転がる固いものがある。飽和していく口腔に耐えきれず葵が吐いたのは鮮血と欠けた奥歯だった。葵の細い頤を幾筋もの紅い線が走る。げほげほと咳き込みながらも葵の手が何かを堪えるかのように、蛇結茨の一房を握りしめたまま血を流す。葛がそれに気付いて指を一本一本ほどいていく。葵の支配下からそこは消えていた。握りしめる強ささえ調節できない。葛が無理矢理解いた。指や手のひらに刺さった棘を丁寧に除けていく。
「こい、手当てをする」
問答無用に家屋の中へ連れ込まれる。葛は彼にしては珍しく乱暴に書類をばさりと今の小卓へ放ると裁縫箱を取り出してくる。ついでに救急箱も携えている。脱脂綿を葵の口の中へこれでもかと突っ込んでくる。もごもご言っている間に切れた口の端などを消毒する。ろくろく口もきけない有様だが、葵にとってはありがたかった。これ以上の暴言は二人が共に暮らすうえでの障害にしかならない。
「高千穂勲など、懐かしい名を、言う」
懐かしいと言いながら葛のそこに親しみのようなぬくもりはない。葛は裁縫箱を開けると針を取り出して席を立つ。訳のわからない葵だけが取り残される。しばらくしてから戻ってきた葛の手には熱く熱された針があった。
「?!?!?」
口のふさがっている葵の悲鳴を葛は無視して抑えつける。軍属上がりとにわか裏稼業では地盤が違う。葛は葵が握りしめていた手を開かせ、血を拭いながら焼けた針で器用に埋もれた棘を抜いて行く。
「んッンん、んうーー!!」
痛い、とか熱い、とかそういったことは完全に無視されている。お前が悪い、と葛の目線がひと睨みで葵を黙らせる。何個か棘が摘出され葛が丹念に葵の両手を矯めつ眇めつする。
「高千穂勲と言ったな」
ぴく、と葵は震えた。自分で言っておいて怖かった。もし葛が高千穂勲を忘れられないと言ったらオレはどうしたらいいんだろう?
「ならばお前は以前、なぜ、預言者の女と逃げた」
葵の肉桂色の瞳孔が集束する。虹彩の放つ燐光が感情の激しさのようだ。
「高千穂勲からある程度は聞いている。預言者が女であること。三好葵の関係者であること、くらいはな」
そのお前が俺をどうして責める
ともに額ずく相手を違えた
お前は女に
俺は男に
俺達はもう裏切りあっている仲ではないのか?
「…かずら、それ、って」
茫然とした葵の眼から涙があふれた。頬を滑るそれを葵は拭おうともしない。見開いた肉桂色の双眸は潤みきって湖面のように凪ぎ、同時に滝のように落涙した。鼻の奥がじぃンと痺れた。ぐすぐすと鼻が詰まる。ぱたぱた、と板張りに葵の涙が弾かれる。葛は何でもない顔をして、あらかたの棘は取った、まだ痛むようなら医者へ行けと言いながら溢れた血を拭い消毒を施して当て布をして包帯を巻いた。その手際は迷いも間違いもなく正確で冷静だ。
「葛はもうオレのこと」
「痛むようなら医者へかかれ。小さい傷だが化膿すると厄介だ」
席を立とうとする葛に追いすがる。そのままばったんと板張りの上へ押し倒す。のしかかるように覆いかぶさり、葵は葛を見下ろした。細く消える眉尻の具合。黒くて長い密な睫毛。切れあがった眦と黒曜石のような双眸。肌理の細かい滑らかな白い肌。葛の体を何度も抱いた。それでも。
「かず、ら」
顔を背けて葵は血まみれの脱脂綿を吐いた。構えもなく殴られた口腔は深く裂けたらしく出血が止まらない。葵は顔を背けて口に溜まる血を何度も吐いた。その飛沫が葛の白い頬へ散る。官能的な乳白色へ散る紅玉の流体は艶めかしい。辺りを血まみれの惨状にしながら血の泡を吐きながら葵は慟哭した。
「オレ達はもう駄目なのかよッ!!」
「じゃあなんで待ってたんだオレのことなんかッ! もう忘れて故郷にでも帰れば良かったんだ! この大陸を忘れてオレを忘れて軍人になっちまえ!」
葛の手がそっと葵の頬に添えられる。殴られた方だ。熱を帯びて腫れている。葛の冷たい手が心地よくて葵は新たな涙をあふれさせた。
「お前が預言者の女と逃げたときは恨んだ。憎みもした。だが俺はお前を」
「わすれられなかった」
葵の動きが、止まった。ぽた、と葛の唇に葵の血が垂れた。葛の篝火のような舌先がそれを舐め拭う。紅い名残が紅のように葛の唇を彩った。
「俺はお前に好きな奴がいるんだと言われてもお前を切り捨てられなかった。出来れば穏便に済ませたかったし懲罰も軽くしてやりたかった」
「か、ずら……お前」
葛がふわりと微笑んだ。困ったような悟ったようなそれはどこか母性のように優しく葵を包んだ。葵はこの顔が好きだった。葛はどうしたらいいか判らないときにどうしたらいいか判らないというから葵が笑えばいいと言ったのだ。だから葛は対処に困ったときに微笑むことが増えた。それでも葵は葛の微笑みがたくさん見れて嬉しかった。もっともっと笑って欲しかった。笑わせてやりたかった。ねぇほらもっと、笑って。葵の母親はいつもそう言った。辛くて泣くことが悪いんじゃないわ、その後に笑うことが重要なのよ。好きなだけ泣いて、でもその後で必ず笑いなさい。悲しみだけで物事を終わらせては駄目よ。葵の脳裏の母親の言葉がこだます。落とし胤である葵を生み、世間から後ろ指さえさされながら、それでも確固たる意志を持って葵を育て上げた女性。
それは素敵な考えだわ。預言者という役目を負った少女はそう言った。だから葵は彼女が好きだった。ヴァイオリンという楽器の存在も知った。今でもへたくそと言われながらも時折弾きたくなるのは彼女の影響だ。それでもその彼女と母親についての好きは同種のものだ。尊敬とも言いかえられる。だが葛は違う。同性であるという明確な点だけではなく、本当に欲しかったのだ。葛はけして葵の能力があるからと言ってこびへつらうような性質ではなかった。冷静に分析し異論も意見もなんの躊躇もなく言う。だから葵は葛が欲しかった。葛にはそばにいてほしかった。繋がっていたかった。棲む場所が違っても思想が違っても心が違っても、葵は葛を忘れられなかったし好きだった。それでいいと思っていた。葵が一人で勝手に好きなだけでよかった。葛にもそれに応えろと強要するつもりはなかった。でも。
「あおい、おれは。お前が本当に好きなのだと、想う。高千穂勲の元へ俺が走ったのは事実だ。それを弁解するつもりはない。俺はあの時最善であると思った手段を取った。だがそれがお前を蝕むというのなら」
この体を好きなだけ切り刻んでしまえばいい
「偉そうだが、それは『赦す』つもりだ」
葛が目蓋を閉じた。仄白い。蒼い血管が透けて見えそうだ。葛は髪も睫毛も眉も漆黒で肌が蝋のように白いから余計に目立つのだ。血管の位置や血流による肌の色合いの変化が顕著なのだ。葛の体温は驚くほど下がっていて、覆いかぶさっていた葵は葛の頬に触れてその予想外の冷たさに驚いた。
ひたひたとしたそれが何であるか気付けぬ葵ではない。葛の涙だ。葛はこうなのだ。泣いていることさえ実際に触れるまで悟らせない。冷え切ったそこは冷たくて冷たくて。葛の意志がそこにある。
「葛ちゃん、オレなんかで、良いんですかー?」
泣き笑いだ。葵は溢れてくる涙と止められない。口の中に溢れる血も何度も呑み下しているのに葛の横へ吐いている。葛は不快だとさえ言わない。葵の感情や情報がどんどん溢れていく。葛は厭いもせずに垂れてくる雫を受け止めて微笑んだ。
「お前が俺を縛る。俺がお前を縛る。そんな、ものだ…――」
葵は葛の唇を吸った。血が流れる感触があったが葛は厭いもせずに吸った。
「まったくさー手加減なし。奥歯欠けちゃったよ、歯医者行かなきゃ」
「お前が悪い。物事や言い草には順序というものがあってだな」
「はーいはいはい」
葵は犬が体を擦り寄せるように葛を抱擁した。葛の白いシャツに紅い染みが広がっていく。それでも葛は何も言わない。葵は茶化すようなことを言いながらぐずぐずと洟をすする。
「ごめんね、ありがとう」
それが全てだった。
《了》